军舰岛
军舰岛(端岛)是在长崎县长崎市的海上的孤岛,
是以海底出产煤炭有名,当时是有着比东京人口密集的海上城市。
军舰岛是在长崎港的南西大约17.5千米远的地方,有端岛的名字来命名的,也就是1810年,
端岛的石炭是在1869年发现的,长崎的工作人员开采。
很多人坚持不到的年就不採了,是因为那里长年都有很强的风。
在1886年建立了第一防风地,是以36米长而建立的。
在1890年的时候,岛上的所有权被三菱商社以10万买下,建立了第二和第三防风地,开始开采这里的炭,
渐渐的成长起来。
1891年饮水设施开始,小学校等住居环境在岛上实行。
1916年是最初一铁筋制作的住宅建设,大阪的早上新闻报道说端岛的外形像军舰,长崎的天天新闻有这样报道,
端岛也就改名为军舰岛了。
1944年岛上贴出了以高工资,和高待遇的广告,以了开采石炭。
1945年美国的潜水艇看到搬运石炭的船,认为端岛是战岛,美国军用鱼雷轰炸了军舰岛。
从那以后端岛的环境也慢慢的改善了,也建立了医院,神社,学校,警察局,保育院,和邮政局等,
当时端岛的建筑技术室日本的最高水平。
1945年建立了65号楼房,是最大的住宅基地,高楼和高楼都是通的是为了在下雨时方便用的。
人就越来越多了,在1941年开采了大约有40万吨石炭,
1960年岛上有5267人,成为世界上最密集的地方,是当时东京人口的9倍。
在那个时候,医院,寺院,电影院,理发厅,美容院,社交场,游戏厅应有极有。
1960年以后,石油代替了石炭, 在1974年石炭不被开采了,当时有2000人,在4月20日,
岛上的人全部离开了,变成了无人岛。
现在端岛成为了近代遗产,
大正年代到昭和年代住宅被大家注目了。
当时的建筑经过多年后是什么样,被称为观光地而谈论开来。
2005报道可以到岛上看岛的样子的许可,2008年长崎端岛参观设施条例被成立,2009年参观可以后的一个月就有
4000人去过了,半年后就有34445人去过,3年后有275000人去过了,现在以世界遗产而登录。
有兴趣的人也一定有去看看哦!
軍艦島
軍艦島(正式名称 端島はしま)は長崎県長崎市にある海に浮かぶ島である
かつては海底炭鉱によって栄え東京以上の人口密度を有していた海上都市です
長崎港から南西の海上約17.5キロの位置にあります
端島の名前がいつから用いられたかは不明だか1810年(文化3年)
端島に石炭が発見1869年(明治2年)に長崎の業者が採炭に着手したものの
1年で廃業それに続き3社も1年から3年で廃業した廃業の理由は強風による
被害といわれている36メートルに及ぶ竪坑が無事に完成したのは1886年(明治19年)のことで、
これが第一竪坑である
1890年(明治23年)端島炭鉱の所有者(鍋島孫六郎)が三菱社へ10万円で
譲渡その後100年以上に渡り端島は三菱の私有地となる譲渡後、三菱は
二竪坑と第三竪坑の開鑿もあって端島炭鉱の出炭量は高島炭鉱を抜くまでに成長した
その後1891年飲料水供給開始、社立の尋常小学校の設立など基本的な住居環境が
整備され島の周囲が埋め立てられた
1916年(大正5年)日本で最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅建設
この時大阪朝日新聞が端島の外観が軍艦と似ていると報道 1921年(大正10年)
長崎日日新聞も日本海軍の戦艦土佐に似ているとして端島を軍艦島と呼んだ
1944年(昭和19年)には給料・食事の待遇を良いとの広告に端島に石炭堀に来た
人が多かったがこの広告は嘘が多く実際の待遇は悪く島を脱出するものも多かった
その様子を見て監獄島と呼ぶものもいた
1945年(昭和20年)アメリカの潜水艦ティランテが停泊していた石炭運搬船(白寿丸)
を魚雷で撃沈した このことはアメリカ軍が端島を本物の戦艦と勘違いして魚雷を
打ったと噂になった
その後端島の環境は少しづつ改善、病院、神社、学校、警察、保育園、郵便局
などを建設 当時の端島の
建築技術は日本の最高水準で建築された
中でも1945年竣工の65号棟は端島で最大の集合住宅であり
高層住宅は各棟を複雑な廊下と通路でつなぎ雨が降っても傘をささずに
島内を歩けたとのこと、 それとともに人口も増加
石炭出炭量が最盛期を迎えた1941年(昭和16年)には約41万トンを出炭
1960年(昭和35年)にはわずか島面積0.063k㎡に5267人の人口があり
人口密度は世界一となった 人口密度は当時の東京の9倍である
このころには炭鉱施設、病院(外科・分娩設備)寺院、映画館、理髪店、美容院、社交場
、パチンコ屋、などもあり島内は完結した都市機能を有した
1960年以降 主要エネルギーが石炭から石油へ移行し衰退していく
1970年以降はエネルギー政策の影響を受け1974年(昭和49年)1月15日に閉山した
閉山時には約2000人にまで減っていた住民も同年4月20には全員島を離れ端島は無人島
となった
現在の端島は近代文化遺産になっている
大正から昭和に至る集合住宅の遺構としても注目されている
当時の建築は故意に取り壊されてることはなく年月の経過で少しづつ朽ち果てていく
様子は廃墟好きな人たちの観光地として話題になっている
2005年(平成17年)8月報道関係者限定で特別に端島への上陸が許可され
荒廃が進む島内の様子が紹介された 島内の建築物はまだ整備されていない所が
多いもののある程度は安全面の問題が解決され2008年には長崎市(長崎端島見学施設
条例)が成立 2009年(平成21年)4月22日から観光客が上陸、見学が可能となった
解禁後1ヶ月で4000人以上の人が上陸したその後も半年間で34445人 3年後には
275000人とたくさんの人が上陸をしている
現在では世界遺産の登録運動が行われている